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執筆者の写真Hideyuki Ikeda

左重則左虚、右重則右杳

左に重心がかかれば左は虚にする

右に重心がかかれば右は杳(よう)とする

杳とは

暗くてよくわからない

影も形もない

という意味です。

これは人によって解釈が別れるところです。

相手が攻撃した時の対処法として記したものもあります。

ここは私の勝手な解釈です。

何故動作を始める時左側から動くかに関係しているのではないか

そう思います。

左と右のベクトルに少し違いがあります。

左は心系、右は肝系

心系は縦の動き、肝系は横の動きになります。

相手が攻撃してきた時の重心のあり方で説明する人もいますが、わたしは単純に左右に重心がかかった時のことを言っているのだと解釈しました。

試しに両足を並行にしてたった常態で肩を左に回して見ます。どっちかと言うと肩は上側のベクトルを感じると思います。右側に肩を回すと肩は水平にベクトルを感じると思います。明らかに左と右では左右に肩を回した時の感覚は違います。

私がこのことに気がついたのは多くの人の套路を見た時、名人だと言われている人も起勢で両手を上げた時、両手の高さが違うのです。水平に上げた時、ほとんどの人が右の手の方が少しだけ高いです。

そこでいろいろ調べているうちに身体の作りから左と右の違いがあるという考えに到達しました。

心系は肩から手を上げます。

肝系は横のベクトルなので肘から手を上げるようになるためです。

両手を上げた時、両手がそろわないのが自然なのです。

左に重心がかかった時、上肢を陰の手にすると足が実になり身体のベクトルは一方向の下に向かいます。これでは体軸は作れません。上肢を陽にすることで足は虚となります。

身体は上下のベクトルになり体軸ができます。

右は肝系の横の動きなので杳という字を使ったのではないかと思います。

左にみたいに上下で虚実があるのと区別するためにあえて杳という字を使ったと私は考えました。

意味から考えて杳は実ではありませんね。

やはり重心がかかった時に虚にするのと同じ意味ではないか

私はそう思っています。

実際の技で考えてみましょう。

倒巻肱や左右の蹬脚など片足に重心がかかる動作は掌を上にして陽の手にします。これを手の甲を上にする陰の手にしたら安定は悪くなります。

陽の手だから足は虚になりベクトルが上下の体軸を作れるのです。

実際に倒巻肱や燈脚で下に重心がかかっている時に掌を下向き、手の甲が上向の陰の手にしてみてください。つま先に体重がかかり膝

が固定され安定は悪くなります。

立っている時重心がかかっている足の方の親指を意識してみてください。つま先に重心がかかりますか、踵に重心がかかりますか

手の親指を意識するとつま先に体重はかかります。そうすると膝は固定され安定は悪くなります。

重心がかかるというのは身体のベクトルは下になります。その時掌を上向きの陽にすると重心は踵にかかります。重力はつま先にかかりますが身体は掌を上向きにすることで湧泉穴が働き体重は地面に抜けるのです。虚になるのです。重心が下にかかる時身体は上向きの陽にすることで上下のベクトルが生まれ体軸を作れるのです。

この解釈が正しいかどうか

人によっては私の解釈は理解されないかもしれませんがこの考え方は私の武術にはとても役立っています。型をする場合にも手を陰にするか陽にするかの判断が自然にできます。

両足を動かさないで気沈丹田する時は両方の手を陰の手にすると腰が立ち体軸ができます。

重心の移動の時も手の操作が必要です。私は膝の動きに合わせています。動は下肢の動きに上肢を合わせるとスムーズに動けます。

あくまでも部分的な力にならない統一体にするための言葉だと思っています。

2024年4月3日

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