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動之即分 静之即合

太極拳経のこの言葉もとても深いです。

私は私なりの解釈をしました。一動作、一つの式に動と静があるということ

技では一つの動作に動と静があります。

套路では一つの式に動と静があります。

例えば相手の首付近の肩に手をかけ相手を倒す技をかけるとします。勁は丹田から発します。左右の極は別れます。陽の動です。この力が遠心力を生みます。技が決まる時、丹田に勁が集まるようにします。相反する極を合わせます。陰の静です。

ここに求心力が生まれます。

一つの技に遠心力と求心力を持つことにより惰力が生まれます。

筋力を使うより効果があります。

例えばピッチャーがボールを投げる動作

そこには遠心力と求心力の力が働きます。

遠心力を使う時は陽の手で発します。

ボールが手から離れるとき陰の手でボールを離します。

陽と陰の力で遠心力と求心力が生まれ惰力でボールは飛んでいきます。

筋力の力ではボールを勢いよく飛ばすことはできません。

套路で考えてみましょう

左右野馬分鬣

左野馬分鬣 右野馬分鬣 左野馬分鬣

と3つの野馬分鬣を一気可成で続けます。

その時は陽の手を使って動き

3つ目の最後の野馬分鬣で陰の手を使って気沈丹田をします。左右野馬分鬣では気沈丹田は一回になります。

左欄雀尾 右欄雀尾

とそれぞれの欄雀尾をするなら

左欄雀尾で気沈丹田、右欄雀尾で気沈丹田と

気沈丹田は1回ずつの2回になります。

このように套路の式では一つの式に陽で別れ陰で合う太極があります。

わたしは

動は丹田から発する陽

静は丹田に集まる陰

ととらえています。

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