一枚の羽の重さが加えられない、蠅も落ちるしかない、人は我のことを知らず、我は人のことを知っている。英雄が向かうところ敵なしなのは
皆このような段階に及んでいるからである、
一枚の羽の重さが加えられない、蝿も留まっていられない状態とはどんな状況なのでしょう
そこに筋肉重視の身体操作と勁の身体操作との質の違いがあります。
勁は流れるのです。相反する関節の連携から流れる勁と部分的な筋肉の動きとでは明らかに違います。
推手では力任せにやるのではなく、触れているか触れていないかくらいの感覚でやる事が大切です。実際の攻防においても力任せにするのではなく関節の連携をすることによって力がぶつからないで相手を受け流す事が可能になります。
人不知我、我獨知人
この言葉は気配のことを行っているのだと私は思います。空間を感じる力は関節にあります。プロプリオセブション(受容感覚器官)と言います。
筋肉主体の動きではこのプロブリオセプションの働きが十分ではありません。関節の用い方次第で相手に気づかれないで動くことも相手の動きを察知して動くこともできるのです。
関節の緩みから関節を連携させます。緩みだけでは腑抜けになってしまいます。関節を連携させることによってプロプリオセブションも十分働き
相手に気づかれないように動いたり、相手の動きを察知したりできるのです。ここまで空間を感じられる感覚を鋭くしたら誰にも負けず敵がないよ
うな段階にまで至ることができるのです。
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